思想・信条の自由、言論の自由において守られるべきことを想定されているのは、少数者のそれです。
「多数者の意見、思想・信条の自由」は、市民革命によって民主主義が起こるのを待つまでもなく、古来からあった筈ですから。
権力者や多数者によって押さえ付けられてきた意見、思想、信条にこそ、その社会、時代が抱える問題点や矛盾が顕れている。だからこそ、それを公に表明できる自由を保護し、皆で議論できるようにしなければならない。
それが民主主義の根幹です。
6月6日に、5月31日に続き、卒業式での君が代の起立・斉唱の強制を認める最高裁判決が出ました。
その判決文の中には、起立・斉唱を強制させることについて、「一般的、客観的」に妥当だ、という表現が何度も出てきます。
基地の騒音や、空港の騒音、公共事業による強制立ち退き、多くの「少数者」の被害が、「一般的、客観的」という言葉の下に、妥当だ、受忍限度内だ、とされてきました。
その根は、同じです。
判決を出した裁判官の中で唯一、反対意見を出した、宮川裁判官の反対意見を、相当、長文ですが、以下にコピペします。
[URL]
でアクセス出来ますが、
思想・信条の自由を守るために、慎重に、緻密に、現状を把握し、判断している意見だと思い、敢えて、ここに記します。
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本件は少数者の思想及び良心の自由に深く関わる問題であると思われる。憲法は 個人の多様な思想及び生き方を尊重し,我が国社会が寛容な開かれた社会であることをその理念としている。そして,憲法は少数者の思想及び良心を多数者のそれと等しく尊重し,その思想及び良心の核心に反する行為を行うことを強制することは許容していないと考えられる。このような視点で本件を検討すると,私は多数意見 に同意することはできない。まず,1において私の反対意見の要諦を述べ,2以下においてそれを敷衍する。
1 国旗に対する敬礼や国歌を斉唱する行為は,私もその一員であるところの多くの人々にとっては心情から自然に,自発的に行う行為であり,式典における起立 斉唱は儀式におけるマナーでもあろう。しかし,そうではない人々が我が国には相当数存在している。それらの人々は「日の丸」や「君が代」を軍国主義や戦前の天皇制絶対主義のシンボルであるとみなし,平和主義や国民主権とは相容れないと考 えている。そうした思いはそれらの人々の心に深く在り,人格的アイデンティティをも形成し,思想及び良心として昇華されている。少数ではあっても,そうした人々はともすれば忘れがちな歴史的・根源的問いを社会に投げかけているとみること ができる。
上告人らが起立斉唱行為を拒否する前提として有している考えについては原審の適法に確定した事実関係の概要中において6点に要約されている。多数意見も,この考えは,「『日の丸』や『君が代』が過去の我が国において果たした役割に関わる上告人ら自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上ないし教育上の信念等ということができる」としており,多数意見は上告人らが有している考えが思想及び良心の内容となっていること,ないしこれらと関連するものであることは承認しているものと思われる。
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